公開日: |更新日:
日本各地でたびたび見かけることがある銅像。待ち合わせ場所にも設定される銅像は、一体いつから作られるようになったのでしょうか?このページでは、銅像の歴史や銅像が作られるようになった背景・目的について解説しています。
現存する世界最古の銅像は、およそ4000年以上前に作られたとされている、エジプト第6王朝ペピ1世の像と推測されています。古代ギリシャのヴィーナス像といった大理石の像はよく知られていますが、この時代からブロンズで作られ、現在まで残っているものもあります。
ブロンズ像の起源は、初期のメソポタミア文明であるシュメール文明より製作されるようになったとされています。場所は現在のイラク付近、時期は紀元前3000年頃と言われています。ブロンズ像は合金で製作されるため、地域によって銅と錫の混合比が異なり、混合比を分析することにより当時の原産地を特定することが可能です。
日本で銅像が作られるようになったのは、飛鳥・白凰時代だとされています。当時は青銅像に金メッキを施した金銅仏が多く作られていました。また、奈良時代には青銅製の「奈良の大仏」も製作されました。このように、銅の鋳造技術が発達するのと並行して、鉄の鋳造技術も導入していました。
1世紀末には、銅の製造技術は東アジアでも指折りの技術を持つまでに発達しました。
日本初の西洋式銅像が作られるようになったのは、明治時代からとされています。現存する仏像以外の銅像としては、明治13年に金沢の兼六園で製作された、日本武尊像である明治紀念之標が該当します。人物像としては、明治26年に靖国神社に製作された大村益次郎像が国内最初の人物銅像とされています。
日本の近代彫刻は、1876年に美術教育機関である工部美術学校の開設により、イタリア人彫刻家のラグーザが来日したことから始まります。日本の銅像は他国の模倣だけでなく、着物を着せることや正座をさせることで日本風にアレンジしながら現在まで伝承されてきました。西洋の鋳造技術を導入し、安定的な鋳造技術と精密な彫刻技術を更に発達させ、写実的な彫刻技術を活かした人物像を可能にしました。
第二次世界大戦が勃発したことにより、慢性的な金属不足が発生しました。これにより、政府が金属類回収令を出したことから、
などの像が回収されて、金属として再利用されてしまいました。これらの像は戦後復興期に復元され、現在ではレジャーや観光を目的とした銅像や、触れることのできる銅像まで、さまざまな銅像が作られるようになりました。
近代では、銅像が作られる目的が大きく3つに分けられています。
このような目的で製作されるのが一般的ですが、その他にも、個人崇拝としての対象物や主義主張の表現としても作られます。近代で銅像が作られる目的について、代表的な3つをそれぞれ解説します。
銅像が作られる目的として、多くは偉業を成し遂げた人や、動物などを称える目的で作られます。また、土地に残る伝承や伝承を題材として町おこしをするために作られるケースもあります。ハチ公の銅像などは、現在では待ち合わせの場所として広く活用されている銅像の一つです。
アートとして、芸術的表現をするために銅像が作られます。また、マスコットキャラクターなどの銅像も作られており、駅などのオープンの記念としても銅像が作られます。
銅像の作成の目的として、庭園などの装飾を目的として製作されることがあります。現在では、昔に比べて銅像を造るのが容易になっているため、住居に観賞用として製作するケースもあるようです。
全国に設置されている銅像の90%以上が、富山県高岡市で製作されていることをご存知でしょうか?高岡市では、約400年以上銅像を製作しています。高岡市の銅像製作の歴史として、加賀藩第2代藩主前田利長公が1609年に高岡城に入場したことから始まります。
1611年に利長公が産業復興策として、現在の高岡市金屋町に7人の鋳物師を招き、鋳物工場を開設して鋳物産業が発展したとされています。工場を開設してからは、鉄の鋳物を中心として製造していましたが、江戸時代中期から銅器美術工芸品の製作を開始し、銅像が作られるようになりました。昭和50年には、伝統工芸品として国から第一産地の指定を受けており、発祥後400年以上経った現在でも日本随一の銅合金鋳物の産地として根付いています。
※2…2021年7月時点で公式サイトに掲載されていた情報(等身大69cmの胸像の価格)
※3…2021年7月時点の電話調査による情報
※4…2021年7月の電話調査による情報
※5…2021年7月の電話調査による情報(料金は等身大70cmの胸像の価格)