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創業者銅像の事例

創業者は、企業のみならず地域にも強い影響を与え、ときには歴史に名を刻むことも。

こうした創業者の功績を称え、記念に建立したものが創業者銅像です。

それぞれどのような経緯で建立されているのか、その事例を紹介します。

石橋信夫翁の銅像

石橋信夫翁の銅像は、大和ハウス工業株式会社の創業者生誕100周年を迎えるにあたり、2021年、出身地である川上村に建立されました。

場所は大滝ダムから川上村役場に向かう途中。国道169号線沿いにあり、村への訪問者のほとんどが銅像を目にすることになります。

1959年のこと、石橋はもう夕暮れであるのに子供達が家に帰ろうとしないのを見て、早く帰宅するようにと声をかけました。しかし、時代はなだ戦後間もない頃。子供たちからは、帰っても勉強部屋も子供部屋もないという返事が返ってきたのです。

その言葉に石橋は、戦後の人口増加に見合った住宅が普及していないことを痛感。プレハブ工業化住宅の先駆けとして知られる「ミゼットハウス」の開発へとつながったのでした。

石橋信夫とは

石橋信夫は大和ハウス工業の創業者です。

林業の盛んな奈良県吉野郡川上村にて、1921(大正10)年9月9日に誕生しました。

奈良県立吉野林業学校で学んだあとは、第二次世界大戦へと徴兵を受けます。その後、シベリアでの抑留を経験し、復員。

復員後まもなく職に就いたのは、吉野中央木材でした。そして、その数年後に石橋は、「建築の工業化」を目指し、1955年に大和ハウス工業を創業するのです。

創業当時からプレハブ住宅の原点と言われる「ミゼットハウス」などを発売し、戦後の復興から高度経済成長期へと発展していく日本の建築を支えることとなりました。

参照元:大和ハウス工業株式会社のプレスリリース(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001408.000002296.html)

藤岡市助博士の銅像

藤岡市助夫は、国内で初めて白熱電球を製造し、東芝を創業したうちのひとりです。

生誕地である山口県岩国市に、東芝と東芝ライテックが藤岡市助夫の銅像と、その建立費として500万円を寄付したのは、2013年のことでした。これには銅像に併設されるLED街路灯の設置も含まれています。

藤岡市助博士の銅像は、東芝ライテック鹿沼工場にも胸像がありますが、寄付によって建立された立像は柏原美術館(旧岩国美術館)の前にあります。

2014年の除幕式には岩国市市長、東芝の社長など関係者150人が出席。白熱電球の製造と日本の電気技術の発展に思いを馳せた立像の足元には、「明るい未来へ」との文字が刻まれています。

藤岡市助夫とは

藤岡市助夫は、周防国岩国、現在の山口県岩国市に生を受けました。

1875年には難関として知られていた工部寮電信科に奨学金で入学。そこでイギリスの物理学者、ウィリアム・エドワード・エアトン教授に学び、学生にして日本初のアーク灯点灯実験にも参加をしています。

そんな藤岡がアーク灯用の発電機を設計製作したのは1883年のこと。

卒業後は工部大学校教授や帝国大学工科助教授に就任。ニューヨークに立ち寄った際には発明王、トーマス・エジソンとも交流しています。

その後、創設した電球製造の「白熱舎」が、東京電気、そして東芝へと発展しました。

参照元:日本で初めて電球を作った藤岡市助氏の銅像建立に東芝らが寄付 - 家電 Watch(https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/news/616735.html)

三浦保の銅像

産業用ボイラーのメーカーである三浦工業株式会社が、創業者である三浦保の銅像建立を検討し始めたのは、2016年、三浦保の没後20年を迎えたことからでした。

実際に建立されたのは銅像は翌2017年。作品は愛媛県今治市出身の彫刻家、阿部誠一氏が手がけています。

座像であり、能に親しんだと言われる三浦保にふさわしい和装で、まっすぐ前を見据えています。

その像の隣には、三浦保が生前に書き残した「夢」の文字もモニュメントとして設置。

天地へとのびやかに書かれた「夢」の文字からは、ボイラー技術の発展への思い、さらなる向上心などが感じられ、銅像同様に背筋が伸びるなるような書です。

三浦保とは

三浦保は三浦工業の創始者であり、芸術家としての一面も持っていました。

松山工業学校(現在の愛媛県立松山工業高等学校)を卒業したのち、徳島工業専門学校機会科で学び、四国機械工業(現在の住友重機械工業愛媛製造所)に入社しています。

1959年には三浦製作所を立ち上げ、代表取締役社長に就任。その後、1978年には販売部の三浦工業を吸収合併、会社を統合し、1989年には同社の代表取締役会長に就任しています。

趣味として陶芸や能楽にも親しみ、数々の活動と功績から、能においていは観世流名誉師範の称号を得ています。

小松安弘氏の銅像

小松安弘氏の銅像は、株式会社エフピコ創業者でもあり、福山市の名誉市民である小松安弘の功績を称え建立されました。

株式会社エフピコはスーパーやコンビニなどで広く用いられている食品トレーの製造会社です。

銅像の原型は文化勲章も受章している中村晋也が制作しました。

設置された2018年、小松の命日でもあるその日には除幕式が行われ、福山市長ら参列者約60人が集合。

両手を掲げたポーズの立像は在りし日を模したもので、小松を知る人物にはおなじみの懐かしさを覚える姿。メガネの形状も繊細に表現されており、生前をありありと思い起こせる立像です。

立像は株式会社エフピコのロビーにて、訪問者を迎え入れてくれています。

小松安弘とは

小松安弘は、1962年に福山パール紙工株式会社、現在の株式会社エフピコを創業した人物です。

1997年には産業振興功績を認められその藍綬褒章を受章。同じく産業振興功績にて、2013年には旭日重光章も受章しています。

さらには公益財団法人「小松育英会」を設立し、経済的な援助を必要とする子供には学資の支援も。

こうしたさまざまな功績を認められたことから、福山市の名誉市民としても親しまれてきました。

また日本刀のコレクターとしても知られ、ふくやま美術館には自身が収集した「小松コレクション」と呼ばれる国宝、及び重要文化財が寄託されています。

前田又吉の銅像

1893年、前田又吉の没後、京都ホテル(現・京都ホテルオークラ)創業の功績などを称え、その銅像を建立しようと働きかけたのは神戸の有力者でした。

銅像はホテルが移転した先の諏訪山に建てられ、傍には由緒を記した碑も並べられたのです。しかし、前田又吉の銅像は、戦時の金属供出に伴い紛失。碑のみが残りました。

時は流れ、1988年、京都ホテルが創業100周年を記念にするにあたり、この碑はホテル構内へと移築されることに。さらには2018年のこと、京都ホテルオークラ創業130周年を記念し、第二次世界大戦時に失われた前田又吉の銅像が再建される運びとなったのです。

現在は、前田又吉と親交のあった伊藤博文の銅像とともに、京都ホテルオークラの北側にて並んでいます。

前田又吉とは

大阪に生まれた前田又吉が、料亭「常盤花壇」を創業したのは1868年の明治元年のことでした。

最初は神戸花隈にあった常盤花壇は、前田が諏訪山の鉱泉に着目したことから移転。これより諏訪山は温泉街として発展することとなったのです。

神戸での成功を機に、前田は1888年、京都の二条橋西詰に「京都常盤」を創業しました。さらには翌1890年、長州藩の京屋敷跡にあたる場所に、京都としては初の本格洋式ホテル「京都ホテル」を開業。これが現在の京都ホテルオークラとなりました。

参照元:オークラ ホテルズ & リゾーツのプレスリリース(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001043.000005118.html)

大矢四郎兵衛の銅像

出身地の砺波市に貢献した人物であるとして、大矢四郎兵衛の銅像が建立されたのは、1938年のことでした。場所は鷹栖村神明社(神明宮)の境内です。

その後、銅像は修復に至り、その作業は2014年完了しました。しかしながら、銅像だけでは生前の功績が伝わらないと、地区民から由緒を詳しく解説する掲示板の設置が求められ、「銅像の記」がそのそばに掲示されることとなりました。

その披露式には大矢のひ孫にあたる方も出席し、掲示板の完成を祝ったと言われています。

このように今なお地区民から愛されている大矢の銅像は、木々に囲まれつつも見晴らしの良い高い台座から、地域を見守り続けています。

大矢四郎兵衛とは

大矢四郎兵衛は、砺波市鷹栖出身の実業家、また政治家としても知られています。

1894年に中越銀行を、1897年には鷹栖銀行の創設に加わっていますが、これらの銀行はのちの北陸銀行の前身となります。

1894年には、現・北日本新聞となる富山日報の社長にも就任。さらに翌1895年には、礪波と高岡を鉄道で結ぶことに強い必要性を感じ、自ら出資して中越鉄道(現・城端線)の社長にも就任しました。

中越鉄道を退職し、さらには政界を引退したあとは、北海道開拓のため現・共和町である岩内郡小沢に移住を。

生涯に置いて新たな挑戦をし続けました。

参照元:北日本新聞ウェブ[webun ウェブン](https://webun.jp/item/7806721)